「社会の歯車」という言葉がどうも苦手だ。はて、この言葉の何が私を怪訝な顔にさせるのかと思えば、割とすぐに答えに着いた。
それは、動力の不在だ。
歯車は、互いに噛み合い、何かを動かすものだろう。けれどもそもそも、歯車同士が数多噛み合い何かを動かしうるものとしてそこにあったとしても、エンジン、動力源がなければ動き出すことは本来ない。
社会の全員が歯車だとするならば、それは全く全員動かない歯車たちからなる大きな仕組みか。或いは誰か何か、動力源となりうるものが何処かに存在していて、そこからひたすらにエネルギーが共有されて動かされているかだろう。
いずれにせよ、歯車は動力源ではなく、動力源は別にあり、しかしながら語られない。このことが、誰か何かの働き、仕事を表す比喩としての「社会の歯車」の意味するところ...